見どころ

ひめゆりの塔

現地メンバー78人のおすすめ

地元の人からのヒント

ツイテル
November 22, 2020
沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等学校の教師・生徒のための慰霊碑。2校の生徒は沖縄戦中「ひめゆり学徒隊」として沖縄陸軍病院に動員された。隣接する資料館では、生存者の証言映像手記、遺品などの展示を通して戦争の悲惨さや平和の尊さを学ぶことができる。
Mio&Naoki
July 1, 2018
看護要員として戦場に動員され、亡くなっていった「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔です。ひめゆり平和祈念資料館には、ひめゆり学徒隊の犠牲者の遺品や、多くの犠牲者がでた伊原第三外科壕が実物大で再現されており、ひめゆり学徒隊について学べる場となっています。 Himeyuri monument stands by the Ibara third surgery shelter at which many of the lives of the students and teachers were taken away.
Villa Coast Nishimachi
March 28, 2020
第二次世界大戦中、唯一国内で地上戦が繰り広げられた沖縄では迫りくる米軍の攻撃によって多くの人が命を落としました。 そんな尊い命をまつわる場所が、県内にはいくつかあります。今回ご紹介する「ひめゆりの塔」もその内のひとつ。 当時沖縄師範学校と沖縄県立第一高等女学校に通っていた、女学生222名と彼女らの教師18名の総勢240名。 彼女たちが沖縄陸軍病院に動員され、負傷兵の治療に尽力を注いだのが「ひめゆり学徒隊」。その名にちなんで慰霊碑「ひめゆりの塔」が建立されました。 「ひめゆりの塔」が位置するのは、那覇市から車で約30分の糸満市。敷地には石碑があるひめゆりの塔と平和祈念資料館の2つのエリアに分かれていて、歴史的側面から当時の状況を知ることができます。
Glanz-Inn Matsuo
March 28, 2020
米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。   3月26日、米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠を取る間もなくなっていきます。  5月下旬米軍が迫る中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された教師・学徒240人中136人、在地部隊その他で90人が亡くなりました。  米軍は沖縄戦を日本本土攻略の拠点を確保する最重要作戦と位置づけ、物量のある限りを使い、対する日本軍は米軍の日本本土上陸を一日でも遅らせるために壕に潜んでの防衛・持久作戦をとりました。沖縄を守備するため、軍は県民の根こそぎ動員を企てると同時に、学徒隊を編成して生徒たちの戦場動員を強行しました。持久作戦、根こそぎ動員は、12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲をうみました。  あれから40年以上たちましたが、戦場の惨状は、私たちの脳裏を離れません。私たちに何の疑念も抱かせず、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません。  戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、未だ紛争の絶えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人ひとりの体験した戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるをえません。  平和であることの大切さを訴え続けることこそ亡くなった学友・教師の鎮魂と信じ、私たちはこの地にひめゆり平和祈念資料館を建設いたしました。当館の設立にあたっては、県内外の多くの方々のご厚意とご協力を賜わりました。深く感謝いたします。 1989年6月23日 戦争体験者が年々少なくなっていく中、若い世代に戦争の実態をより分かりやすく伝えるために、2004(平成16)年4月、全面的な展示改装を行い、さらに平和への思いを未来へつないでいくために「平和の広場」を増築いたしました。 地上戦となった沖縄戦で主戦場となった南部は、沖縄戦に関する戦跡が点在するエリアです。なかでも、沖縄陸軍病院に動員された女子学生や教師の鎮魂のための慰霊碑がある「ひめゆり平和祈念資料館」は、戦争体験者の貴重な証言や資料がわかりやすく展示されています。とくに若い世代に戦争の実態を伝える場所として、平和学習で訪れる修学旅行生も多く訪れます。
米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。   3月26日、米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠を取る間もなくなっていきます。  5月下旬米軍が迫る中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然…
Shige And Mana
May 27, 2017
"看護要員として戦場に動員され、亡くなっていった「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔です。ひめゆり平和祈念資料館には、ひめゆり学徒隊の犠牲者の遺品や、多くの犠牲者がでた伊原第三外科壕が実物大で再現されており、ひめゆり学徒隊について学べる場となっています。 Himeyuri monument stands by the Ibara third surgery shelter at which many of the lives of the students and teachers were taken away. "

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所在地
671-1 Ihara
Itoman, Okinawa